白のページ(魔術・占い)3

白磁の錬金術師

 先日、珍しく家族サービスを思い立ち、久々に箱根までドライブしてきました。
 さすが日本屈指の観光地だけあって、駐車場に車を停めるだけで料金をとられるわ、レストランは高いわ、人は一杯いるわ、と、予想以上の散在をしてしまいました。
 博物館や美術館の類も、なぜかごちゃごちゃとたくさんあります。
 有名な彫刻の森美術館はともかく、星の王子様ミュージアム、ガラスの森美術館におもちゃ博物館と、箱根と何の関係があるんだと突っ込みたくなるような個人経営の小さな博物館なのに、入場料は大手の特別展に負けないくらい高いです。
 箱根マイセン庭園美術館なんてのもその1つです。
 御殿場ICで東名を降りて、謎の巨大生物アッシーで有名な(?)芦ノ湖方面に向かっていると、目利きはできないくせにこのテのハイソっぽい品物に目のないうちの奥様が看板を見つけてしまい、ついつい見学してしまいました(入場料1人1600円なり)。
 美術館といっても、建物は普通の民家程度の大きさで、マイセンだけでなくウェッジウッドだとかリモージュだとかいった陶磁器のコレクションを展示しており、小さな喫茶店やミュージアム・ショップ、庭なども付属しています。
 個人でこれだけ集めたというのは、それなりに誇るべき勲章であり、見せびらかしたくなる気持ちもわからないではありませんが、結局は金さえあればできることで、ヨーロッパの一流博物館とは比べようもありません(でも入場料は勝ってる)。
 付属のミュージアム・ショップは4畳半ほどの広さ。陶磁器の販売も行っており、MADE IN OCCUPIED JAPANと銘の入ったコースターを見つけてつい買ってしまいました(値引きしてもらって3500円)。ちなみに、店だけの見学は不可です。
 というわけで、マイセンです。
 知ってる人は知ってると思いますが、マイセンはドイツのドレスデン近くにある町の名で、ヨーロッパ最初の硬質磁器がこの町で生まれ、現代まで最高の品質と格式を保ち続けているというわけです。そしてこのマイセン磁器の生みの親とされるのが、とある錬金術師なのです。
 荒川弘作『鋼の錬金術師』が人気を博したとはいえ、錬金術に対する世間一般の評価は偽科学、中世の迷信、妖しげな魔術の一種、といったところではないでしょうか。
 錬金術師という人種も、その多くはペテン師、変人、いかれぽんち、と思われがちですが、時にはまっとうな業績を残した人もいるわけです。
 マイセンの磁器も、妖しい世界の住人が表の歴史に刻んだ珍しい成功例の1つと言えましょう。
 その錬金術師の名はヨハン・フリードリッヒ・ベットガー(1682〜1719)で、南ドイツのシュライツに生まれました。
 父のヨハン・アダム・ベットガーは、彼が1歳になる前に亡くなり、母親は翌年再婚しています。
 ベットガーは利発な少年だったらしく、築城の専門家であった継父からラテン語や幾何学、数学などの教育を受けましたが、とりわけ関心を抱いたのが化学でした。
 彼の才能を見抜いた継父は、ベルリンの有名な薬剤師、フリードリッヒ・ツォルンのところに徒弟に出します。
 ベットガーはここで働きながら学び、さらに当時の有名な科学者たちとも親交を結びました。
 こうした科学者たちの中に、錬金術師にしてガラス製造技術の大家、ヨハン・クンケルもいました。そしてクンケルもまた、若きベットガーの才能を高く評価したようです。
 じつはこのクンケルとの交流から、ベットガーは後のマイセン磁器作成の助けとなる知識を得たのですが、彼の関心はじつは錬金術にあったのです。
 とはいえ、錬金術で金を造りだすなんて、理論的には不可能です。徒弟の少ない給料を投じて実験を繰り返し、すっからかんになっては友人から金を借りるということを繰り返すうち、彼は一種のトリックに手を染めたようです。何度か友人立会いのもとで実験を行い、銀を金に変えて見せたのです。
 ジャネット・グリーソンの『マイセン』(集英社)によると、熱した坩堝に立会人が銀貨を入れ、謎の粉末を加えて蓋をしておくと、中身が金に変わったということですが、これだと銀(あるいは水銀でも)でメッキした金貨を使えば似たような結果になりそうです。ベットガーにすれば、自分は金の錬成に近づいており、実験資金を集めるためちょっとしたトリックを用いても、成功してから何倍にもして返せばいいだろうと思ったのでしょう。その頃母親にも、2度とひもじい思いはさせない、という内容の手紙を書いております。エドやアルにも負けない、母親思いの錬金術師ではないでしょうか。
 それは、1701年のことでした。晴れて徒弟から職人に昇進したベットガーは、師のツォルン夫妻を招いて錬金術の実験を行いました。
 いつもやってる、銀貨を坩堝で溶かして謎の粉末と混ぜると金になるという実演です。
 このときの金はちゃんと検査され、本物であると確かめられています。そしてこのニュースは、たちまちプロイセン国内に広がり、かの有名な哲学者ライプニッツもこの事件に言及しているということです。
 当然ながら事件は、当時のプロイセン王フリードリッヒ1世の耳にも入りました。そこでフリードリッヒは、自らベットガーに出頭を命じ、自分の目の前で金を作れと迫ったのです。もちろん失敗したりインチキがばれたら、命さえ危ない話です。
 恐れをなしたベットガーは隣国ザクセン公国のヴィッテンヴルクに逃れます。しかしそこで彼を待っていたのが、強王と仇名されるザクセンのアウグスト1世でした。
 時はあたかも、スウェーデンとの北方戦争の真っ最中、いくらでも戦費が必要な時期です。 ベットガーの素性と、プロイセンから逃げてきた理由とを知ったアウグスト強王は、内心しめたと思ったかもしれません。
 こうしてアウグストは金を作らせるため、ベットガーを首都のドレスデンに連れて行き、城内に閉じ込めました。このときベットガーはまだ19歳。鋼の錬金術師ことエドワード・エルリックと、それほど違わない年齢だったのです。
 ドレスデンでは、ベットガーは、3人の助手と毎日実験を繰り返す日々です。助手の他に顔を会わせることのできる人間は看守と、お目付け役の役人2人だけ、こうした厳しい環境の中で毎日飲んだくれては暴れ出す始末。もちろん、期待の黄金などできる気配はありません。
 そこで王も考えを改め、1703年になると庭の見える一角を彼にあてがいます。
 この頃、ベットガーの運命に大きな影響を与えたもう1人の人物との出会いがありました。
 その人物はエーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウスという貴族で、王から磁器の作成を依頼されていました。
 当時のヨーロッパでは、中国や日本で作成されるような硬質の磁器を造ることはできず、せいぜいが磁器に似せた白い陶器か、軟質磁器と呼ばれるもろいものしかありませんでした。そこで東洋の磁器は高い値段で取引され、磁器の杯から飲めば毒や熱から身を守ることができるとか、毒物の入った食事を磁器の器に盛ると砕けてしまう、などといった迷信まで生まれました。したがって磁器を自分の領土内で作成できれば、金ほどではないにしてもかなりの儲けが期待できます。それにアウグスト強王自身も、マ・クベではありませんが、東洋の美しい磁器が大好きだったのです。
 とはいえ磁器の製造もかなり難しい仕事です。チルンハウスもなかなか成功しませんでした。
 一方チルンハウスはベットガーと会ったとき、その化学知識には並々ならぬものがあることを見抜いていました。
 時は1705年のことです。いつまでたっても黄金を作ることのできないベットガーに、アウグスト1世もキレかけていました。そのとき、ベットガーを磁器の製作に従事させるよう進言したのがチルンハウスだったのです。
 自分はもう歳なのに、磁器製造への道のりはまだまだ遠い。自分の後継者を選ぶとすればあの男しかいない。
 チルンハウスはそう王に申し出たのです。もちろんベットガーには、この提案を受け入れる以外の選択はありませんでした。
 金の錬成という長年の夢を一時あきらめ、磁器の研究に入らざるを得なかったベットガーが連れて行かれたのは、マイセンにあるアルブレヒト城でした。
 ここでは労働条件が多少改善され、十分な食事と飲み物、それに庭園の散歩も認められました。庭園には動物園まであります。しかし、城から出られないことに変わりありません。
 ベットガーはここで、とても熱心に研究に励みます。
 ポーランド王も兼ねているアウグストの所領各地から集められた土を様々な割合で混ぜ合わせ、窯で焼き、その結果を詳しく記録に残すという、非常に現実的な手法で分析作業を繰り返し、1709年には白磁の作成に成功します。
 これほど素養のある男なら、錬金術などというできもしない夢を追わないで磁器やガラス工芸といった実利的な研究に進んでおれば、きっと華やかな人生が待っていただろうに、という気がしますが、誰しも若さゆえのあやまちというものは認めたくないものです。
 1710年にはマイセンに新しい磁器工場が開設されます。ヨーロッパにおいて初めて、本格的な磁器製造が始まったのです。そして功労者のベットガーは工場長に任命されます。
 一応給料をもらえる身分になり、翌年には男爵の爵位も得ましたが、相変わらずの監禁状態です。
 アウグスト強王が言うには、これまでベットガーには多大な資金を投資したのだから、それを返済するまで自由にはしてやらぬというのです。あるいはアウグスト自身、磁器の製法を見つけたベットガーなら本当に金を作れるかも知れぬと思っていたのかもしれません。そこで工場長にはなったものの、ベットガーは相変わらずドレスデンで釉薬を研究したり、新しい窯をデザインしたりといった研究漬けの毎日、マイセンを訪れることはほとんどできませんでした。
 当然工場の管理はほとんどできず、職人や廷臣たちが製品を横流ししたり、大量発注者のアウグスト王自身が代金を払わなかったり、給料不払いで職人たちがストライキをしたり、おまけに販路の開拓やプレゼンテーション、発注に見合う生産システムの開発や在庫の保管など、専門とはいえない経営分野の課題も自分で解決しなければなりません。しかも損害が出ると工場長のベットガー自身が自費で穴埋めをしなければならないという制度になっていたので、借金を払いきれずに刑務所に入ったこともあります。
 というわけで、ベットガーはついに体調を崩してしまいました。これにはさすがのアウグストも哀れみを覚えたのか、はたまたこのままでは金が造れないと考えたのか、ついに1714年、ベットガーを自由の身にしてくれます。
 ベットガーは早速母や妹、義弟を呼び寄せて一緒に暮らします。本当に親孝行な錬金術師です。
 晩年のベットガー男爵は、上流階級の一員として表面的には華やかな生活を送りながら、錬金術の研究も続けていたようです。しかし、やっと手に入れた楽しい生活も長くは続かず、1719年、37歳の若さで死亡しました。磁器製造の秘密を守るため毒殺されたとの噂もありますが、長年過酷な環境で強いストレスを受けながら浴びるように酒を飲み、有害物質を含む多くの鉱物を高温で焼いてはその煙を吸っていたのですから、決して健康によさそうな生活環境ではありません。
 死んだときの財産はわずか700ターレル(1ターレルは16イギリス・ポンドくらい)、それに対し借金が2万ターレルあったということです。
 磁気の製法はやがて周辺諸国に漏れ、多くのライバルが登場していますが、マイセンの磁器は、未だにその格式を保ち続けています。
  もし読者の皆さんにマイセンの磁器を愛でる機会があれば、図らずも磁器製作に人生を捧げることとなり、若くして亡くなった錬金術師にも想いを馳せてやってください。

参考:ジャネット・グリーソン『マイセン−秘法に憑かれた男たち』集英社


初出:「0界通信オンライン」No.128〜130