白のページ(魔術・占い)4

女王陛下の007

 ジョン・ディー(1527〜1608)は、中世イギリスを代表する魔術師として有名である。
 彼が体系付けたエノク魔術は、19世紀になって黄金の夜明けなどの魔術団体に復活継承され、そのモナド論も後世に大きな影響を残した。占星術師としても有名であるが、彼の生涯は数学や航海術などまっとうな分野で功績を残したエリザベス女王の側近としての前半生と、エドワード・ケリーと組んで天使の召喚や錬金術に熱中した魔術師としての後半生に二分できる。

 ディーはロンドン郊外のモートレイクに生まれ、わずか15才の時、いわゆる飛び級でケンブリッジ大学に入学、19歳でギリシャ語の助教授となったという。
 2年後に卒業した後は、ルーヴァン大学でヘルメス学に関する論文を書き、パリでは数学者としても評価された。
 このような人物がなぜ魔術に手を染めるようになったのか、推測するしかないが、人生においてどのような対象に魅せられるかは、本人の知能指数や学歴とはあまり関係ないように思われる。月面に人類最初の一歩を記したニール・アームストロングが熱心なカトリック教徒だったり、欧米で理系の学位を得た、知的には優秀なアラブ人学生が、帰国後イスラム原理主義運動に参加して自爆テロまで行うようなものだ。科学的な知識のみでは、宗教的情熱を払拭できない、それと同様に、神秘的事象に対する関心も、知能指数が高かったり高学歴であれば特に低下するというわけでもなさそうだ。逆に学歴や知能指数の高い人物は、仮にトリックで騙された場合にも、自分のような人間に見破れないくらいだから本物に違いないと信じる傾向にも陥りがちだ。

 秀才ジョン・ディーも、すでに学生時代から西洋占星術に関心を持っており、しかもそれがけっこう的中するとの評判を得ていたらしい。
 現に帰国後、当時の女王メアリ1世や、その妹で幽閉中だったエリザベスに召し出されて、それぞれの運勢を西洋占星術で占っている。
 1558年、エリザベス1世の即位時には、ディーが西洋占星術を用いて戴冠式の時間を決めたとも言われている。

 エリザベス女王の時代、ディーは宮廷の顧問となり、女王の腹心サー・フランシス・ウォリシンガムの内意を受けて再び大陸を訪れた。
 このとき、ディーに期待された役割が何だったのかは明らかでないが、一説にはディーは女王陛下の秘密諜報員も兼ねており、007というコードネームを持っていたとも言われている。
 1564年、モナド論の著書『象形文字のモナド』を出版した直後に帰国し、故郷モートレイクに腰を据えると、1日18時間勉学に没頭し食事は2時間、睡眠は4時間という生活を続けた。その中で航海術の著書を出版し、北極海の航行術について探検隊に助言したり、地図の作成や海軍の防備計画作成にも関わった。フランシス・ベーコンやウォルター・ローリーとも親交があった。
 「大英帝国」という名称を考え出し、海洋帝国の構想を主張したのはディーと言われる。他方で「オカルト」という言葉も最初に使用したとされ、要は国益増進への献身とオカルト研究の両面でけっこうな活躍をしたということだ。このときの功績が認められたのか、イギリス艦隊がスペインの無敵艦隊を破ったときには、ディーもエリザベス女王からメダルを授与されている。
 私生活においては、1574年に最初の結婚をするが、妻は1年後に死亡、1576年には若くて美しいジェーン・フロモンドと再婚する。かなり年齢の離れた夫婦であるが、仲は良かったようだ。
 ディー天使召喚に関心を持ったのは、この頃らしい。その原因として、悪夢に悩まされたとか、周辺にポルターガイストの初期症状としてのラップが生じたためとか言われているが、ディー自身は占星術とかカバラとかの理論的な魔術はともかく、自分自身でを見たり話したりする能力は終生持ち合わせていなかった。
 そこで、自分にない能力を有する人間に頼ることになった。最初はバーナバス・ソールという霊媒と組んでいた。しかしこの人物のパフォーマンスは、必ずしもディーを満足させるものではなく、ソールもすぐに逃げ出してしまった。そこへ現われたのが、エドワード・ケリーであった。1582年以後はエドワード.ケリーと組んで霊界の研究に没頭するようになる。魔術師ジョン・ディーの誕生である。
 この2人の共同作業の結果、いわゆるエノク魔術の体系が生まれた。
 このエノク魔術の基礎となるエノク語は、ケリーが大天使ウリエルから伝え聞いたとされ、古代のアトランティスで話されていたとも、エデンの園で使われていたとも言われる。天使の言葉であるから、これを用いて自然界の諸霊を操ることができるという触れ込みであるが、エノク語そのものは英語によく似た擬似言語である。
 英語は土着のケルトにアングロサクソンの要素が混じり、さらにノルマン人の征服下で簡略化された、ヨーロッパ諸語の中でも比較的新しい言葉である。太古に作られたはずの天使の言葉が、このような言語に似ているはずはないのだが、当時の言語学の知識では見破れないのも無理はない。
 1583年、ディーはポーランドの貴族アダルペルト・ラスキ伯爵の訪問を受けた。伯爵は、ディー錬金術の奥義に到達したと信じており、ポーランドにある自分の所領で金の錬成を行うよう求めた。この訪問にはディーよりもケリーの方が熱心で、2人はそろってポーランドに赴いた。しかし2人の実験は失敗を重ね、ラスキ伯爵は2人に神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世を紹介した。
 ルドルフ2世は、錬金術や占星術に多大な関心を寄せた人物で、その宮廷には多くの錬金術師が仕えていた。2人は皇帝の居城のあるプラハを訪れたが、皇帝はすぐに2人を追放した。その原因として、ローマ教皇庁より、ディーがイギリスのスパイであると告げる親書が届いたせいとも言われている。
 その後2人はボヘミヤのトレボナの領主トーゼンベルク伯爵の居城にもぐりこみ、錬金術の実験に没頭した。この頃には、ケリーの方がディーを督促して実験を続けさせたという。1587年4月には、ケリー天使の命令として、妻を含めたすべてを2人が共有すべきだと言い出した。この妻の交換は実現しなかったが、これが原因となってディーケリーと仲たがいし、イギリスに帰国した。
 ディーは帰国後、エリザベス女王の援助でマンチェスターにあるクライスト・カレッレジ学長となるが、妻ジェーンをペストで失ってしまう。その後は留守中地域住民略奪された蔵書の復元を続け、知識人たちと交流を続けながら、天使召喚の実験も続けたようだ。
 ところがエリザベス1世が崩御し、ジェームズ1世が即位すると、事情は一変した。
 ジェームズ1世は、強硬に魔術に敵対する人物であり、魔術師と評判のディーを学長から罷免し、年金の支払いも停止した。 その結果ディーは1608年、故郷のモートレイクで、赤貧のうちにその生涯を閉じた。残ったのは、ディーが一生かけて集めた神学、数学、占星術、錬金術などの蔵書約4000冊で、これらは大英博物館に寄贈された。
 一方ケリーの消息は、必ずしも明らかでない。
 ディーと別れた後、彼は1人プラハに戻ったようだが、15915月、ルドルフ2世の命で拘禁されたらしい。その後脱獄を図って死亡したというのが一般的な説である。

(2005年1月配信「0界通信オンライン第108/109号を加筆)