イースター島紀行

 昔々、その昔、太平洋に、東西8000キロ、南北5000キロにも及ぶ広大な大陸が存在したという人がおります。

 この大陸では、約5000万年も前に最初の人類が発生し、その勢力はアジアやヨーロッパ、南北アメリカ大陸にまで及んでいたということです。

 しかし今から約1万2000前のこと、地中のガス・ベルト(どうも可燃性のガスが詰まった地中の空洞らしいです)が爆発し、この大陸は一夜にして海底に沈んでしまいました。

 この大陸こそ、映画やテレビ、漫画やアニメでおなじみの、伝説のムー大陸です。

 ムー大陸は、自称元イギリス陸軍大佐ジェームズ・チャーチワードが、その一連の著作の中で存在を主張したものです。

 大西洋には、古代ギリシャの哲学者プラトンに始まる、アトランティスの伝説が伝わっています。

 しかし太平洋にそのような大陸が存在したという主張は、1882年にアメリカのニューブロウが唱えたパン大陸あたりが最初のようです(しばしば太平洋にあったとされるレムリアは、本来インド洋に想定されたものです)。

 ただし、ムー大陸実在の根拠は、限りなくゼロに近いというべきでしょう。
 チャーチワードがチベットで見たという粘土板の存在は確認されていないし、元イギリス陸軍大佐という経歴自体も疑問のようです。
 太平洋の海底からも、ムー大陸の実在示すような地質学上の痕跡はまったく発見されていません。
 結局、チャーチワードが独自に行った主張のなかで、その後学問的な裏づけが得られたものは皆無です。

 と、ここまで書けばおわかりと思いますが、羽仁礼ももはや、ムー大陸の存在は信じておりません

 私が最初にムー大陸の存在を知ったのは、当時の少年漫画週刊紙の巻頭グラビアだったように記憶してます。

 おそらく小学校の低学年の頃と推定しますが、そうしたグラビアでイースター島のモアイの絵を見た私は、自分は前世ではムー大陸におり、このモアイ像を眼にしていた、という裏付けのない確信を抱いてしまいました。
 デジャヴュの一種でしょうが、幼な心にも、モアイの姿がそれほど衝撃となったということです(ちなみに今でも時々デジャヴュを経験します)。
 同時に、いつか再びこの場所を訪れるのが自分の現世での使命だ、などと大げさすぎる決意をしたものです(なにぶん昔の話なので多少脚色されているかもしれません)。

 その後様々な経緯を経て、ムー大陸なんてなかったと結論している今となっても、いつの日かイースター島を訪れたい、とずっと願いつづけてきました。私にとって人生の宿願と言っても良いでしょう。

 そして苦節数十年、西暦2000年末になって、遂にその宿願を果たす日がやってきました。

 問題のイースター島はチリ領ですが、本土からは4000キロも離れた南太平洋上にあります。人の住む一番近い島も、1200キロほど離れているということです。文字通りの絶海の孤島です。

 航空便は、週に2回、日曜と木曜にランチリ(チリの航空会社です)が、サンチャゴとタヒチを往復する際に立ち寄る(つまり週4回発着)だけです。

 当時シドニーに住んでいた私としては、当然ながらシドニーからタヒチ経由でイースター島に上陸するというルートを考え、市内のカンタス航空のオフィスまで足を運びました。 

 応対してくれたのは、ミシェルというやたら愛想の良いお姉さんでしたが、彼女はタヒチからイースター島までは週に1便しかないと言いはるのです(でも後でランチリに確認したら、やっぱり週2便でした)。

 そしてミシェルは、12月18日(月)に午前7時5分発のカンタス(QF)119便でオークランドへ行き、そこで乗り換えてQF317でタヒチという日程を組んでくれました。
 日付変更線を越えるため、イースター島には18日に着きます。そして24日に現地を出て26日(火)にシドニーに帰ってくることになります。
 日程にあわせてイースター島のホテルも予約し、現地での観光ツアーもすべてアレンジ、料金もしっかり払い込みました。

 18日夜のタヒチでの乗り換え時間は1時間半しかなかったのですが、何しろ映画「レインマン」の中で、あのダスティン・ホフマンが「落ちたことがない」と言っているカンタスです。そんなに遅れることはなかろう、とまったく心配していませんでした(というより何も考えていなかった)。
 そして18日、午前7時5分発オークランド行のQF119便に乗るために、朝4時半に起きて5時に空港に着きました(もちろんまだ暗い)。

 空港の搭乗カウンターでは、オークランドからタヒチまでの搭乗券も一緒に発券してくれました。
 ところがこの搭乗券を見ると、カンタスだと信じていたオークランド・タヒチのフライトが、カンタスと共同運航のポリネシア航空(PH)817便になっていました。
 でもこのときはあまり心配もしないで、乗ったことのないポリネシア航空に乗るのが楽しみだわい、などと他愛無く考えていました。

 オークランドまではまったく問題なく進みました。
 所要時間は3時間ほどなのですが、しかし乗換えまでに5時間もあります。
 オークランドの国際空港というのが小さな空港で、売店も少ないので、本など読んで時間を潰します。

 搭乗予定のPH817は6番ゲートということなのでその場所で待っていたのですが、突然ゲートが10番に変更になりました。
 このときは、少しくらい何かないと旅も面白くない、くらいに鷹揚に構えていたのですが、ゲートが16Aに再度変更になりました。
 ところが、この16Aのゲートがわかりません。発着ロビーを端から端まで歩いても、ゲートは1から10までしかないのです。
 係員に聞いてやっと、3番ゲートの向かいくらいに地階に下りる階段があり、下に16と17のゲートがあることを知りました。

 しかし、しかし、しかし・・・・。

 搭乗予定の午後4時を過ぎても、一向に受付が始まりません。
 そのうち係員が、飛行機が遅れてまだ到着しておらず、出発は1時間半遅れの6時半頃になるというのです。
 ここに至ってさすがにあせってきました。

 何しろタヒチでの乗り換え時間は1時間半。しかし飛行機が1時間半遅れると、下手をすると乗り換え時間がなくなるわけで、そうすると払い込んだランチリの飛行機代とホテル代、ツアー代もパー。
 しかし何よりも、わが人生の宿願はいったいどうなる?イースター島に足を踏み入れないまま空しくシドニーに帰ることになったら一生恨むぞポリネシア航空・・・・と、このときはさすがに顔面に無数の縦線が入ってしまいました。

 結局飛行機は、予定出発時間を過ぎた午後5時10分に到着し、6時30分に出発しました。
 あとはもう、運を天(機長?)にまかせてただ座席に座って祈るだけです。
 そしてこの祈りが通じたのか、何とか18日の午前0時30分、タヒチのパペーテに到着、午前1時のランチリにぎりぎりで間に合いました。

 ちなみにポリネシア航空のスチュワーデスはまるで武蔵丸関のような顔の人ばかりでした。

 こうして数々の困難を乗り越えて(本人は何もしていないけど)やっと念願のイースター島にたどり着きました。
 乗機時間は計11時間。乗り換え時間や空港への移動、搭乗待ち時間まで入れると、じつに19時間に及ぶ長い旅路でした。
 そして初めて足を踏み入れたはずのイースター島の風景は、なぜか妙に懐かしく思えました。

 『地球の歩き方・南米T』によれば、イースター島は面積約165平方キロ(瀬戸内海の小豆島より少し大きい)、周囲58キロくらいの小さな島です(他の資料では少々数字が異なっていたりします)。
 参加したツアーのガイドによれば、人口は3500人程度。観光のほか、農業や牧畜も重要な産業です。

 イースター島というのは通称で、1722年にオランダのロッヘフェーンが到着した日がたまたまイースター(復活祭)だったためそう呼ばれています。
 その後チリの領土になったときパスクア島と名づけられ、また現地語でラパ・ヌイとも呼ばれます。
 白人がやってくる以前、地元の人は「世界のへそ」と呼んでいたようです。

 ちなみにオーストラリアのエアーズ・ロックやギリシャのデルフィも、地元の人は世界のへそと考えていたらしく、地球にはへそがいくつもあるようです。

 チャーチワードによれば、イースター島はムー大陸の一部であったということですが、地質学が教える島の成り立ちはまったく逆です。
 つまり、沈んだ大陸のうちこの部分だけが残ったのではなく、3つの火山が噴火した際の堆積物でこの部分だけが島として海上に顔を出したのです。

 南半球のイースター島は、シドニーと同じく日差しが一番長い時期でした。
 夏のイースター島は緑の下草に覆われ、あちこちで馬が放牧されています(したがって馬糞もいたるところに落ちてます)。
 ホテルは、西海岸の海沿いにあるハンガ・ロア・ホテル。村に5つある大型ホテルの1つで、バンガロー形式の平屋建、客室は90ほどあります。
 海のすぐそばなので、部屋のテラスに椅子を出して水平線を眺めていると、いつの間にか「海のトリトン」のテーマソングを口ずさんでしまいます(トリトンはアトランティスだろう!)。

 しかし、しかし、私が着いた18日の月曜の天気は空全面真っ白の曇り、しかも時々強い雨でした。

 その後も、雨が降らなかったのは22日と23日だけで、全体的に天候には恵まれませんでした。ツアー・ガイドによれば、例によって異常気象だそうです。

 イースター島は東と南、そして北西にある3つの死火山を頂点にした三角形をしており、ざっと言えば北と西、そして南東に三角形の辺がきます。
 従って観光ツアーも島の南(タハイからオロンゴ)、東南から北(アカハンガ、ラノララクからアナケナ)、そして博物館と内陸(プナパウからアキビ)という3方向のツアーでほぼすべての見所が網羅できるように組まれています。
 そもそも出発前にもらった旅程表では、到着日はフリーで、翌日から3日間この3種類の島内観光ツアーが組まれていました。
 しかし、空港に迎えに来ていた旅行代理店のお兄さんが、「今日3時からツアーだよ」と予定変更を知らせてくれました(その後も予定変更がいくつかあった)。
 というわけで、あまりのんびりする暇もなかったのですが、それでも空いた時間を利用して島で唯一の集落であるハンガロア村を散策してきました。

 村の海岸にも、5メートルくらいのモアイが2つ3つ並んでいます。

 モアイには2メートルもないものから20メートルを越えるものまで様々なバリエーションがありますが、たいていは5メートルから7メートルくらいです。
 これが1つだけぽつんとあったとしても、超ド級の迫力はありません。

 ハンガ・ロア村には、レストランと土産物屋、スーパーなどは十数軒くらいずつありますが(村の外には皆無)、土産物屋もレストランもこのときはまったく客が入っていませんでした。
 有名な観光地なので、ある程度英語が通じると期待していたのですが、これがじつにさっぱりでした。
 おまけに、土産物屋に入っても、ただこちらを眺めているだけで声すらかけてこないところもあります(やる気があるのか)。
 でも、少し話し掛けてみるとみんな親切に対応してくれるので、あるいは、話をしたいのだけれど言葉が通じないので気後れしているのかもしれません。
 要するに我が魂の故郷は、事前に予想していた以上の辺境でした。
 いずれにしても、子供が木彫りのモアイを持って追いかけてくるという中近東のような経験は皆無でした。

 午後3時からの観光ツアーは、英語をしゃべるツアー・ガイド付きです。
 子供4人を連れた夫婦、オーストラリア人のカップル、単身の男性が私を入れて3人の総勢11人が参加しました。
 このうち単身の男性1人が最終日に抜けた以外は、全員が同じ行程に参加しました。

 初日は、村のすぐ北にあるアフ・タハイの遺跡と、鳥人崇拝の中心地オロンガです。

 アフ・タハイは、ハンガ・ロア村のすぐ北にあり、ホテルから歩いていくこともできます(その後も何度か訪れました)。
 ここにはかつての村の跡や、ちゃんと頭にプカオ(髪の毛を模した赤い円筒の石)を乗せ、目まで入った完全装備のモアイがあり、その近くにも何体かモアイがあります。

 オロンガは、モアイがすたれた後に島で支配的となった鳥人崇拝の中心地です。
 創造神マケマケや鳥人の姿を刻んだ岩がいくつも残っています。

 ラノ・カオ火山の山頂近くで風も強く、雨が降っていたので傘をさしていたら風で飛ばされてしまいました。マケマケ様への捧げ物というところです。

 この日はヴィナプ訪問も予定されていたのですが、悪天候のため中止となりました。

 2日目は朝9時からの1日ツアー。やはり1日曇り、時々雨でした。

 まず村はずれの博物館を見学、それからアカハンガ、トンガリキの名所を見学してから、いよいよモアイ製造工場のあるラノ・ララクです。
 博物館の展示によれば、本来イースター島には887体ものモアイがあり、現在も777体が島内に残っているとのことです。
 他にはアナケナで発見されたモアイの目とか、コハウ・ロンゴ・ロンゴ(オリジナルは1つで他は複製)などが展示されています。

 博物館の後は、15体のモアイが復元されているトンガリキ(モアイが同じ方向を向いて横一列に並んでいる姿には、昔話の「傘地蔵」を思い出してしまいました)、そしていよいよイースター観光のハイライト、ラノ・ララクです。

 ラノ・ララクは、イースター島の中でももっともモアイ密度が高い地域です。
 なんと397体ものモアイが残っているそうで、そのモアイは全て製作途上のものです。ここはモアイの製造工場で、大勢のモアイ職人が毎日働いていたようです。

 イースター島のイメージとしてしばしば紹介される、首まで地面に埋まった巨大なモアイも、このラノ・ララクのものです。
 私が幼時に衝撃を受けたモアイの絵も、この首だけのモアイ像をもとに描いたものでした。
 後にヘイエルダールの『アク・アク』を読んでモアイに胴体があると知ったときは、前世で見ていたはずなのになぜ気づかなかったのか、と強い自責の念にかられてしまいました(ただの思い込みだったのだよ)。
 ともあれ、山の斜面に並んで海を眺めているモアイたちを見ていると、海の彼方に消えた故郷の大陸をしのんでいる、という形容がまさにぴったりという感じです。
 もっとも、緑の草原に首や鼻まで埋もれている図は、バスクリンの入った大浴場にみんなで浸っているようにも見えます(日本人にしかわからない表現だな)。
 山の山頂近くから眺めると、まさにどっちを向いてもモアイです。
 海岸近くの引き倒されたモアイたちは、輪郭がぼけてしまって目鼻もはっきりしないのが多い中、ラノララクのモアイたちはじつにくっきりした良い表情をしてます。

 ラノララクの次が、伝説の王ホツ・マツアが上陸したとされるアナケナ海岸。
 ここには5体のモアイが立つアフと、少し離れて立つ1体のモアイ(ヘイエルダールが復元した)があります。

 本来ならツアーの最後に海水浴が入るのですが、折からの悪天候で誰も泳ぐ人はいませんでした。

 20日の水曜はフリー。やはり曇り時々雨の悪天候です。

 しかし雨にも負けず風にもめげず、ハンガ・ピコとかタハイなど村周辺の遺跡を散歩してきましたが、夕方には、ほんの2,3分で運動靴がびしょ濡れになる(体の方は安物のカッパを着ていた)豪雨に見舞われてしまいました。

 21日の木曜はヴィナプとプレアウレ、そしてアナ・カイタンガタの岩絵の見学でおしまいでした(ちなみに「アナ」とは現地語で「洞窟」だそうです。ポリネシア系統らしいです)。

 ということで、出発前の旅程でツアー入っていたアキビ、テ・ペフ、プノパウは結局切り捨てられました。

 でも木曜の午後から気温も上がり、わずかに雲の切れ間が見えたので、村でマウンテンバイクを借りることにしました(1日20ドル)。
 学生時代に戻ってチャリンコでも回そうかと気楽に構えていたのですが、これが大間違い。すぐに厳しい現実に直面した羽仁礼でした。
 島の道路はほとんどが舗装されておらず、石ころだらけのでこぼこ道、おまけにかなり坂が多いのです。でこぼこに揺られながら急坂を登っていくのはかなり重労働です。
 雨上がりでもあり、泥除けの付いていないマウンテンバイクを漕ぐと、泥と馬糞の混じったしぶきが運転席に向かって前後から飛んできます。おまけにギア比を調整しようとすると、すぐチェーンが外れてしまいます。
 それでも村周辺のタハイとかハンガ・ピコを乗り回していましたが、でこぼこ道でたちまちお尻が痛くなって音を上げてしまい、明日はジープにしようと固く心に誓った軟弱者の羽仁礼でした。

 翌日(22日)は雨も上がり、青空の面積もかなり拡大したので、前日の決心に従ってジープを借りました(1日60ドル)。

 まず村を出てタハイからさらに北のテペウまで走りました。

 テペウの辺りはかなりの悪路で、道路というより轍の跡に近く、しかも両側に岩が転がっています。四駆ならともかく、普通車はちょっとという感じです。
 調子に乗ってとばしていると、道端の岩に前輪をぶつけて、タイヤに穴が空いてしまいました(自動車のタイヤは、接地面は分厚いのですが側面は薄く、けっこう弱いのです)。

 というわけでジャッキとレンチをとりだして(ちゃんと付いててよかった)タイヤ交換を始めました。

 なぜか年配の日本人が1人近づいてきて声をかけてくれましたが、すぐに行ってしまいました(ちなみにイースター島に滞在した1週間で20名以上の日本人、あるいはそれらしきモンゴロイドを見ました。帰りのフライトには私も入れて18人の日本人がいました。けっこうお得意さんらしいです)。

 そこで、またしても問題が発生しました(けっこう小さなトラブルがありました。辺境旅行にはつき物ですが)。
 車体を持ち上げたのは良いのですが、なんとジープは普通の乗用車より車体が高いため、備え付けのジャッキでは一杯に持ち上げてもタイヤが外せないということに気づきました。
 しかし、遠い親戚のチンパンジー程度の頭脳は持っている羽仁礼です。

 まず車体を持ち上げたまま辺りに転がっている石ころの中から適当な大きさを選び、車体の下につっかえをしました。
 それからジャッキを抜き、また適当な大きさの石を車の下に敷いてその上にジャッキを乗せ、再び車体を持ち上げました(途中で石が割れたりジャッキが倒れたりすると結構危険です)。

 ここでまたまた新たな問題です。

 無事タイヤ交換を終えたのは良いのですが、交換したスペアタイヤは、空気が半分ほどしか入っていないベコベコ・タイヤ(ロクに整備していないだろうな。ウインドーのウォッシャー液も空だったし)。
 さすがにこれでは石ころだらけの悪路は無理と判断して、ひとまず村に1軒しかないガソリンスタンドまで戻り、タイヤに空気を入れてくることにしました。
 7キロ程度の距離に20分以上かける超安全運転です。

 首尾よくタイヤの空気補給を終えた羽仁礼は、危険な西側道路は避けて(何しろ今度パンクしたらスペアがない)、良好な空港前の道路を回ることにしました。

 島のほぼ真中を、空港から北東に伸びる舗装道路に沿って北上し、途中で未舗装の道路にそれて内陸のプナパウ、アキヴィの7体のモアイをまず回ってきました。

 プナパウには、モアイの頭に乗せるプカオ(赤色で、髪の毛を模したといわれる)が、いくつか転がっていました。

 アキヴィのモアイは、珍しく最初から海の方を向いて立てられていたもので、伝説の王ホツ・マツアの家来を表すものとも言われています。

 その後舗装道路に戻って、再度アナケナの海岸を訪れました。

 それからアナケナから西の方、『地球の歩き方』の地図では徒歩のみ可能とされている点線の道路を辿ってみました。

 地図ではナウナウというのがアナケナの近くにあり、確かに崩れたアフらしきものがありました。

 その後はほとんど轍の跡としか言えないような道路をしばらくたどりましたが、悪路でスピードは出せないし、かなり進まないと遺跡もなさそうだし、しかもそれほど大したものでもなさそうだし、ということで、ある程度走ってからあっさり方向転換しました。

 アナケナから北海岸を東に向かい、南東海岸に降りてオネマキヒ、ハンガ・テテンガ、ハンガ・ポウクラまで巡ってきました。

 途中、標識もなければ地図にも載っていないようなモアイたちもいくつか見てきました。

 少しばかり見落としたところもありますが、イースター島については、見るほどのものは見たと言ってよいでしょう。

 ところで、人が遺跡を訪れたとき、「誰が何のために」という疑問に襲われることがあります。しかしモアイに関しては、この疑問はかなり解明されているようです。

 ツアー・ガイドによれば、モアイは部族の中の主だった人が死んだときに作られ、海岸から内陸を向いて部族の村を見守るように立てられたそうです。要は、祖先の霊に村を守ってもらおうということです。
 作成後アフと呼ばれる台座の上に安置される、眼窩が掘られ、サンゴでできた白目が入れられたようです(つまり未完成のモアイは目が入っていません)。

 アフ・タハイには目の入ったモアイが復元されていますが、白目をむいて頭に円筒形のプカオを乗せたモアイの姿は、かなりこっけいでさえあります。

 誰が作ったかというと、もちろんイースター島の住民で、イースター島の住民は紀元4世紀頃島に渡ってきたと言われています。もしかしたらもう少し古かったかもしれませんが、いずれにしてもムー大陸とは関係ないようです。

 この住民がどこから来たかについて、ヘイエルダールは南米との関連を指摘していますが、学界ではポリネシア起源説が優勢のようです。

 もう1つの疑問、「どのようにして」についても、ラノ・ララクに様々な工程のモアイがたくさん残っているので製作過程はかなり詳しくわかっています。
 モアイは火山灰が堆積できた凝灰岩を削っていますが、この石はかなり柔らかく、爪で引っかいてもくずがぱらぱら落ちるほどです。もっと硬い石を使用した斧を使えば、削るのもそれほど困難ではありません。
 それに、モアイが現在島の各地で見られる最終形態に落ち着くまでは、ある程度の試行錯誤もあったようです。
 ただ、あれほど大規模に行われていたモアイ製作がなぜ突然中止されたのかについては、未だ完全に解明されていません(ヘイエルダールは長耳族と短耳族の対立を述べている)。

 どのようにしてアフまで運び、どのようにして立てたかについては、やはりヘイエルダールの前で村人が実際に立てて見せたことがありますが、他にも諸説あるようです。裏を返せば、人力と簡単な道具のみを使用して立てる方法がいくつもあるということです。

 最後の23日の夕方は、またもやアフ・タハイまで歩きました。やっと晴れたので、夕日を見ようと思ったのです。
 途中の道路では、お馬の親子が踵を並べて帰っていきます。
 アフ・タハイのモアイの前で、むせ返るくらい強い夏草の匂いの中、海を見つめて日没を待っていると、周囲を赤とんぼが飛び交っています。
 寄せては返す波の音。どこからともなく、子供の名を呼ぶ母親の声も聞こえます。そして迫る夕暮れ。
 辺りが次第に薄暗くなる中に1人たたずんでいると、いつか、確かにこの場所で・・・と思えてきます。
 やはりイースター島はデジャヴュの島でした。

 24日、クリスマスイヴに、ランチリでイースター島に別れを告げました。
 タヒチのパペーテで乗り継ぎを待っていると、乗ってきたランチリのスチュワーデスたちが、免税店で買い物をしておりました。
 まさか、とは思いましたが、彼女たちはそのまま帰りのフライトに搭乗して行きました。
 イースター島やタヒチでの駐機時間を入れると、じつに往復19時間もの重労働です。
 サービスが悪かったはずです。
(2001年1月配信のメルマガ「0界通信オンライン」第10〜12号を改訂)